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Channel: 歴史(とき)は流れゆくもの
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第三回:すれ違う思惑

  結論から言ってしまえば、景虎は義輝を助けることができなかった。まず、一回目の上洛の際には将軍家を助けるというより、朝廷に拝謁することが重要だった。前年に受けた官位への御礼などを兼ねてのものである。当然、連れていった手勢もほんの僅かで、千五百どころかほんの数十人の供を伴っただけではという説もある。仮に、義輝に泣きつかれたとしてもどうしようもないわけである。...

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第四回:二条御所の惨劇・前編

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第五回:二条御所の惨劇・後編

後年のこと。信長が五万の軍勢を率いて上洛した際、真っ先に降服したのが他ならぬ松永弾正久秀だった。機を見るに敏という点では、どこまでもしたたかであったといえる。残虐さ、ということにかけては日本史上類を見ないといっていいほどの信長であったが、その彼をして、「この者、誰もが恐れる天下の大罪を三つも行った男だ」と言わしめたのが久秀という男である。信長は、自分と同じ匂いをさせたこの老人にあるいは嫉妬していたの...

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第六回:逃亡、逃亡、また逃亡

将軍義輝をまんまと葬り去った久秀は、その従兄弟義栄を後釜に据えた。義栄は前から将軍になりたくてたまらず、傀儡(かいらい)であろうが構わなかった。自分の意のままに動く人物であれば誰でも良い久秀にしてみれば、まさに渡りに舟といえた。かくして翌永禄十一(1566)年二月に、十四代将軍は誕生した。もっともその間、いくつかのいざこざはあった。一つは三好三人衆との決定的な対立で、これについては後でまた詳しく述べ...

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第七回:大仏焼失

亡き義輝の従兄弟、義栄が将軍になるには更に月日を要した。他国へ逃れた覚慶こと、義秋が自分こそ将軍になるべき人物だと宣言したためもある。いずれにしろ、彼を押し立てていった松永久秀は邪魔者を始末しなかった。始末しようにも、身動きが取れなかったためだ。...

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第八回:光秀との出会い

久秀と三好三人衆が中央の覇権を巡って争っていた頃、足利義秋は越前の地で無聊をかこっていた。彼を迎え入れた越前の国主朝倉義景は、たしかに下にも置かぬ待遇で接してはくれた。しかし、大いに不満である。  左馬頭従五位下の官位を朝廷から得たのをきっかけに、将軍になるという決意表明をしている。だからこそ、義秋はよく動いた。無論実際の行動には限りがあるので、全国の有力な大名に書簡を送りまくった。...

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年頭のあいさつに代えて

皆様お久しぶりです。遅ればせながら明けましておめでとうございます。去年の後半、公私共に忙しかったためブログの更新ができなかったことをお詫びします。これからは極力更新を怠るまいとは思いますが、歴史小説の文学賞に挑戦するなどまた忙しくなるのは必定となっていきます。一応このブログは長いスパンで継続していこうと思っていますので、どうかこれからもよろしくお願いします。...

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 第九回:天下布武

 一体、何様のつもりだ。 光秀の進言を聞かされる度、義景はうっとおしく感じていた。先代孝景の頃ならいざ知らず、この時点での朝倉家はもはや世襲制が当たり前の家柄となっていた。安定の行き着く先には、身内や勝手知った家臣団で固め尽くした政権となっていく。少なくとも、越前一国を守るためだけならそれ以上のものを求める必要はない。...

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手塚治虫(1928-89)-不死鳥の如く-

 手塚が亡くなった際、マスコミの大半はヒューマニズムな作風という点と常に第一線で活躍していたということを強調して賛美の拍手を惜しまなかった。しかしこれは、あまりにも表面的な見方でしかない。まずはヒューマニズムというのは、手塚にとっては表現のための一つの手段でしかなかったということだ。...

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坂井泉水(1967-2007)

  交響曲「新世界より」などで有名なチェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークが音楽学校の教師をしていた頃の話。ある日授業中に生徒たちに向かい、  「モーツァルトとはどんな存在であるか?」...

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第三回:すれ違う思惑

  結論から言ってしまえば、景虎は義輝を助けることができなかった。まず、一回目の上洛の際には将軍家を助けるというより、朝廷に拝謁することが重要だった。前年に受けた官位への御礼などを兼ねてのものである。当然、連れていった手勢もほんの僅かで、千五百どころかほんの数十人の供を伴っただけではという説もある。仮に、義輝に泣きつかれたとしてもどうしようもないわけである。...

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第四回:二条御所の惨劇・前編

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第五回:二条御所の惨劇・後編

後年のこと。信長が五万の軍勢を率いて上洛した際、真っ先に降服したのが他ならぬ松永弾正久秀だった。機を見るに敏という点では、どこまでもしたたかであったといえる。残虐さ、ということにかけては日本史上類を見ないといっていいほどの信長であったが、その彼をして、「この者、誰もが恐れる天下の大罪を三つも行った男だ」と言わしめたのが久秀という男である。信長は、自分と同じ匂いをさせたこの老人にあるいは嫉妬していたの...

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第六回:逃亡、逃亡、また逃亡

将軍義輝をまんまと葬り去った久秀は、その従兄弟義栄を後釜に据えた。義栄は前から将軍になりたくてたまらず、傀儡(かいらい)であろうが構わなかった。自分の意のままに動く人物であれば誰でも良い久秀にしてみれば、まさに渡りに舟といえた。かくして翌永禄十一(1566)年二月に、十四代将軍は誕生した。もっともその間、いくつかのいざこざはあった。一つは三好三人衆との決定的な対立で、これについては後でまた詳しく述べ...

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第七回:大仏焼失

亡き義輝の従兄弟、義栄が将軍になるには更に月日を要した。他国へ逃れた覚慶こと、義秋が自分こそ将軍になるべき人物だと宣言したためもある。いずれにしろ、彼を押し立てていった松永久秀は邪魔者を始末しなかった。始末しようにも、身動きが取れなかったためだ。...

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第八回:光秀との出会い

久秀と三好三人衆が中央の覇権を巡って争っていた頃、足利義秋は越前の地で無聊をかこっていた。彼を迎え入れた越前の国主朝倉義景は、たしかに下にも置かぬ待遇で接してはくれた。しかし、大いに不満である。  左馬頭従五位下の官位を朝廷から得たのをきっかけに、将軍になるという決意表明をしている。だからこそ、義秋はよく動いた。無論実際の行動には限りがあるので、全国の有力な大名に書簡を送りまくった。...

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年頭のあいさつに代えて

皆様お久しぶりです。遅ればせながら明けましておめでとうございます。去年の後半、公私共に忙しかったためブログの更新ができなかったことをお詫びします。これからは極力更新を怠るまいとは思いますが、歴史小説の文学賞に挑戦するなどまた忙しくなるのは必定となっていきます。一応このブログは長いスパンで継続していこうと思っていますので、どうかこれからもよろしくお願いします。...

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 第九回:天下布武

 一体、何様のつもりだ。 光秀の進言を聞かされる度、義景はうっとおしく感じていた。先代孝景の頃ならいざ知らず、この時点での朝倉家はもはや世襲制が当たり前の家柄となっていた。安定の行き着く先には、身内や勝手知った家臣団で固め尽くした政権となっていく。少なくとも、越前一国を守るためだけならそれ以上のものを求める必要はない。...

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手塚治虫(1928-89)-不死鳥の如く-

 手塚が亡くなった際、マスコミの大半はヒューマニズムな作風という点と常に第一線で活躍していたということを強調して賛美の拍手を惜しまなかった。しかしこれは、あまりにも表面的な見方でしかない。まずはヒューマニズムというのは、手塚にとっては表現のための一つの手段でしかなかったということだ。...

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坂井泉水(1967-2007)

  交響曲「新世界より」などで有名なチェコの作曲家アントニン・ドヴォルザークが音楽学校の教師をしていた頃の話。ある日授業中に生徒たちに向かい、  「モーツァルトとはどんな存在であるか?」...

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